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フランスの歴史 : 古代のフランス
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現在のフランスで確認されている最古の文化は、旧石器時代の文化(→石器時代の「旧石器時代」)で、この文化は洞窟(どうくつ)壁画をのこしている。有名なものにフランス南西部のドルドーニュで発見されたラスコー洞窟の壁画があるが、1994年にアルデシュ渓谷でみつかったショベ洞窟壁画や2000年に発見されたキュサック洞窟の壁画などもある。キュサック洞窟の壁画は3万5000年前にさかのぼる可能性がある。中石器時代(前8000〜前4000)の遺跡は少ないが、新石器時代(前4000〜前2000)は相当数の巨石記念物がのこっている。ブルターニュのカルナック列石やロワール渓谷のドルメン(机石)などがその例である。青銅器時代(前2000〜前800)および鉄器時代(前8世紀〜前2世紀)になると、きわめて洗練された文化が登場する。前8世紀ごろからはじまるハルシュタット文化とよばれる鉄器文化は、アルプス方面から到来したケルト人のものだった。ケルトの最盛期は前5世紀ごろのラ・テーヌ文化の時代で、金工技術、陶器などに特徴がある。なお、前7世紀には、地中海沿岸にギリシャ人が植民都市を建設した。

ローマ支配下のガリア

古代ローマ時代のガリア地方

古代ローマ人は、現在のフランス地域をガリアとよんでいた。前121年、現在のマルセイユ付近にいたギリシャ人は、ケルト系住民の圧力をうけたため、ローマ人に保護を要請し、救援にきたローマ人は、内陸部のナルボンヌに拠点をもうけた。この都市はガリア・ナルボネンシスの中心になる。ついで、前58〜前15年にガリアを転戦したカエサルは、征服した土地を、ガリア・ルグドゥネンシス、ガリア・ベルギカ、アクイタニアの3属州に編成し、中心は今日のリヨンにおかれた。

ガリアはしだいにローマ帝国に同化され、その重要な一部となる。ガリアの住民にもローマの市民権があたえられ、有力者には元老院議員の資格があたえられた。そして、2世紀にガリアにもたらされたキリスト教はしだいにガリア社会に広まり、上層階層の出身者で教会の要職につく者も多かった。

5世紀になると、北方のゲルマン人が大挙してガリアに侵入した。

412年に西ゴート族がイタリア方面から入って、ガリア南部にいすわり、440年ごろにはブルグント族がガリア東部を占領した。一方、ブリテン島にいたケルト人はテウトニ族(アングロ・サクソン人)におわれてガリア西部のブルターニュ半島に到来した。そして、476年に西ローマ帝国がほろびると、フランス全体をまとめる政治勢力はなくなった。 西ローマ帝国がほろびるころ、ガリアに新しい支配者が登場する。フランク族の一集団、サリ人である。もともとライン川の河口付近にいて、海の人とよばれたサリ人はしだいに南下し、今日のベルギーからフランス北部にあたる地域にすむようになった。サリ人の王クロービスは、ローマ・カトリックの信徒だったブルグントの王女と結婚してカトリックに改宗した。西ローマ帝国が滅亡して、たよるべき政治権力をうしなったローマ系ガリア人とガリアのカトリック教会にとってたのもしい存在となった。クロービスの家系、すなわちメロビング朝は、751年まで今日のオランダ、ベルギー、フランスからドイツ西部に相当する広い範囲をフランク王国として支配した。しかし、個々の地域で国王の代理をつとめた伯は地域の実力者からえらばれていたので、それぞれの地方には自立した勢力がそだち、国家としての一体性はうすかった。しかも、フランクの伝統として分割相続がおこなわれたため、メロビング家の内部で争いがたえず、王の力はしだいに弱くなった。そして、王にかわって、フランス北東部からドイツ南西部の辺りに勢力をはっていたピピンの一族が力をもった。ピピン2世は、やがてフランク王国全体の貴族の長として宮宰になり、宮廷をとりしきった。その子カール・マルテルは732年にトゥール・ポワティエの戦でイスラム教徒を撃退してフランクの真の指導者になり、その子ピピン3世はメロビング朝の王を廃して、フランクの王になった。この王家の交代はローマの教皇によって承認された。実力のある王が社会の秩序と安定のために必要とされたのである。"フランス" MicrosoftR EncartaR Online Encyclopedia 2008
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