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中世のフランス: カペー朝のフランス
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987年、ユーグ・カペーが即位したときから固有のフランスの歴史がはじまる。すでに9世紀には、東フランクではゲルマン系の言葉が話されていたが、西フランクではゲルマンの影響をうけて変化したラテン語がつかわれた。これがフランス語の起源である。ただし、ローマ人がはやくからすみついていた南フランスでは、ゲルマンの影響は小さく、方言化したラテン語になっており、これは現在でもつかわれている。ユーグが実際に支配していたのは、パリ周辺の自分の領地だけだったが、聖俗諸侯による選挙で王位をえ、しかもランス大司教の支持をえたことは、神の名においてフランス人を支配し保護する役割をあたえられたことを意味した。そして7代目のフィリップ2世のころになると、王は肩書を利用して、ほかの領主の土地を没収するようになり、王の領地はしだいに拡大していった。

中世フランス

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結婚も領地の拡大の手段だった。ルイ7世(在位1137〜80)は、アキテーヌ公国とガスコーニュ公国とポワトゥ伯領を相続したエレオノール(アリエノール)と結婚した。2人の間に生まれる子供はこれらの領地を相続するはずだった。しかし、2人は離婚し、エレオノールはフランス北西部でノルマンディ公国とアンジュー伯領を支配するアンリと再婚した。しかもアンリは、母がイングランド国王の娘だったので、1154年、イングランド国王ヘンリー2世となった。こうして、ヘンリーとエレオノールの間に生まれた子供は、イングランドとフランスにまたがる広大な領地の支配者となった。

カペー朝はこのような失敗もしたが、着実に領土を拡大し、統治の仕組みをととのえた。フィリップ2世(在位1180〜1223)は、キリスト教の異端の撲滅を口実として、南フランスに領土を獲得し、その孫ルイ9世(在位1226〜70)は行政機構を整備した。その孫フィリップ4世はローマ教皇との抗争に際して、聖職者と貴族、都市の代表者をあつめて、はじめて三部会を開催した。

領土の拡大は王の野心を満足させるためだけのものではなかった。この時代は西ヨーロッパ全体が繁栄の時代をむかえて、商業や工業が盛んになり、遠隔地をむすぶ交易が発達した。商工業の中心地として都市が発達したのも、この時代である。

王の領土が拡大し、支配が確実になることは、経済活動が安全になることを意味した。したがって、国王が実力をもつことは、商工業者の願いでもあり、国王の軍事活動を都市の商工業者や金融業者が応援したのは、自分たちの繁栄にむすびついたからである。カペー朝の王たちは十字軍の活動に熱心に参加したが、これも、宗教的な感情とともに、臣民の商魂にささえられていた。商工業者や金融業者の富は、都市の教会建築にも利用された。教会は物騒な世相に生きる人々にとって、心の支えであった。1328年、カペーの本家に男子の後継者がいなかったので、フィリップ4世の甥(おい)、バロワ家のフィリップが王位についた。以後1589年までの260年間に、一家から13人の王が即位する。カペー朝では340年間に14人の王が、またブルボン朝の場合には1589年からフランス革命までの200年を5人の王がになったのにくらべ、バロワ朝国王の統治期間の短さはこの時代の統治の難しさを意味した。バロワ朝時代のフランスは、イングランドとの間の百年戦争とイタリア戦争、国内では、ブルゴーニュ公家との争い、そして16世紀には宗教改革にともなうユグノー戦争を経験した。またこの時代は黒死病の時代でもあった"フランス" MicrosoftR EncartaR Online Encyclopedia 2008
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